2017年08月11日

過去からの補遺13


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2012/01/19

言葉が普遍性を持つのはなぜか。特殊の指すひとことが、われらが類の欲望を、撃っているからだ。音として記号としての単語が、その概念を異にしても、異である事が、対話者どうし、気づきにくいので、コミュニケイションが成り立っていると錯覚する。意味があるのではなく意味を与えている。与えている共同体と与えている個とは与える意味が異なる。ある言葉に対して、そうそう、と思い当たっても、発語者とは当たり方が違う。どう異なるかは確かめようがない。多義性とは、異なる。多義性は、その一つ一つの意義が、公開され共有されているが、ここで言う概念は、そうではない。個の歴史によって定義づけられる。

NHK、18歳の少女の死。高い知性。知性とは何かを示した。余剰と思われていた脳神経系は、この時精一杯働き、状況に適応した。余剰とみられていた知は、余剰ではなかった。この死に対応した進化の先端だった。この時のためにこそ蓄えられていた生命の、死に対する、優越宣言であった。



湯川らが、力があるところ粒子があるとして、発見したのはあっていたが、それをうけつけるボーアたちはうんざりだった。君もまた新粒子派かね。朝永のは積分のトリック。これにもボーアはうんざりした。長い計算をご苦労だったね。ボーアたちの感想が正しい。
朝永。若い頃の軽井沢での、物理数学の勉強会。ビールと、予定表に書いていた。東大での特別講義。人差し指を宙に回しながら、説明する様子を見て、嗚呼、体得している、自己薬篭中のものになっていると、感じた。死ぬ直前、新宿の改札口ですれ違った。私はあっと小声を吐いた。末期色の顔色で、嗚呼、もう長くないと思った。向こうはいぶかしげにこちらを見た。

重力についてだけは、対応する粒子が確認できていない。無いからだ。粒子を媒介としないからこそ重力だけが次元の拘束を受けない。世界現象とは、唯一の重心から全方向に逸脱したモノたちの構図だ。

数学は現実に追いつけない。

自分では冷静だと思っているが、時に、心、ときめく。冷静に飽きたのだろう。

西島=ゲルマンの理論。クォーク。フィネガンズウェイク。

正しく学問していると,つじつまが合っているようなところに矛盾をみる態度が出来てくる。すらすらとはかどる時は、ただ上滑りしているだけである可能性がある。


2012/01/22

古典物理が示すように、相手がなければ、力は加速と同義だ。相手があれば、静止も含めて等速状態を保てる。この事態を、個の心理に、あるいは、社会一般に、適用したくてむずむずする。

2012/02/01

宋代の便銭(為替)に使われた預り証である交子を、政府が発行し始めた。世界最初の(兌換)紙幣だ。しかも期限付きだ。

資本が国家を見捨て始めた。負債を抱えた国家を(その負債の原因が自らにあった責任を取らず)一部に含むか、全く捨て去るかして、ブルジョアの独裁が始まる。これに対抗するのは、実体経済の担い手と、一次二次産業従事者の生き残りと、世界全体にネットワークを広げた市民だ。歴史が終わり、日常の反復があるのではない。歴史は遡行し、かつての対立をさらに明確にし、不徹底であったことをやり直す。日常ではなく、市民革命を繰り返す。

食料、特に離乳食にめぐまれていた。だが、たちまち人口が増えて、移動が始まった。
狩猟の道具が、対外戦争と対内治安維持のための武器になった。150人が、個体で監視できる最多人数。それを超えると、秩序維持のために武器が必要となった。
〈ネットワークの規模が大きいほうが戦いでは優性だ。資本は国家を抜いた。市民は資本を抜けるか?

2012/02/10

リーマンのゼータについて。
二つの複素関数Φとσの和とそれの共役との積の括弧をばらしたとき、Φσバーの実部の2倍が出るが、ゼータが対称性をもち、それによって、二つの関数の和で表せるとしたら、そして、その平方の積分が1であるとしたら、(関数を確率関数と見ると全領域で1は当たり前)、Φだけ、σだけの平方積分がゼロなら、実部=1/2が出る。

2012/02/11

宝くじを例にとりたくはないのだが。
100万枚売り出したとする。各等に当たる確率が計算される。君が一枚買ったとする。その瞬間、それが当たりかはずれか、当たりなら何等かが決定する。ここで、次のような、思考実験をしてみよう。100万枚を1枚だと思うのだ。すると、宝くじは、個々の確率は明らかだが、何通りものそれらが重ね合わさった存在であったが、君が買った瞬間、その価値が確定する。この確率が、存在そのものの確率である場合が(たくさんの場合があるがこれが根本的)、量子力学の収縮の状況だ。
では翻って、あくまで例であるので捨象してある事があるものの、この実験を基にして、量子力学を眺める。量子は、実は、100万個あるのか?
ありそうである。空間そのものが、振動し励起し続け、励起に過ぎない存在は刻々ありかを移しつつあるかのように見える。たとえ白と黒しか表せなくとも100万の画素数をもつモニター画面で、白い点が躍り走って見えるようなものだ。

現象に差異があることが、時間が有限であることを証拠づける。
時間が無限にあったなら、現象は、あまねくフラットとなるだろう。つまり現象を現象たらしえない。
一方、ゲージに、絶対的な差異があることからも、時間の有限性が明らかである。
では、現象と、ゲージと、両方の差異が、ある折衷を介して、定数を表現することはないのか?

2012/02/12

私が小学生のころの、父とのこと。

夏休みの自由研究について、父に相談した。
父は自分のやり方を話した。
普段から、いろいろな生物の生態観察を続けて(たとえば、蚕の成長過程を)、あるいは、工学的な実験を続けて(メッキの原理から技術的な工夫を)、記録にとっておく。
私と同じ年頃の自分を思い出しながらだろう、眼を輝かせて私に語った。
学校が要請してきたら、内容に応じて、今度は、これを出してやろう、今度はこれ、と、いつも、余裕綽々にしておけ。
夢中の生態観察、メッキつくりの際の目がよみがえって光り、私に注がれていた。
おいおい、おなじにしないでくれ、やめてくれ。僕には僕のやり方が、人生が、ある!

祖母が言うには、父は、ドッポウほど面白いものはない、と言っていたそうだ。
ドッポウとは、独法で、ドイツの法学なのでしょう。私は大学に入ってから、父の使ったドイツ語の文章集を参照した。ドッポウは知らん。

2012/02/17

続 宝くじによるたとえ

量子力学における観測の問題では、フォン・ノイマンのように、意識を考慮する事がある。観測の瞬間以降の、シュレーディンガーに従わない部分を最後の段階に残しておく。ところが、宝くじによるたとえで、意識が関与しているのは、観測の瞬間以前の、百万枚を一枚と見なす操作である。意識を持つ動物のやりそうなことである。
さて、君は一枚買う。外れ。0円。また一枚買う。0円。……。また一枚買う。1000円当たった。……。一万枚ほど買ったところで、溜まったくじの分布を見ると、実際の100万枚の当選金額の分布に相似的であるのがわかるだろう。スクリーンに一個一個の電子を当てていくと、最初はランダムであるようだが、そのうちうっすらと干渉縞が見えてくるのと同じことだ。宝くじの一枚一枚同士が干渉したのか? していない。だが、しているかのように見える。しかし、百万枚を一枚と見なす者にとっては、揺れ動くその一枚が自らと干渉しているとさえ思える。

2012/02/18

アインシュタインのいかがわしさ。

1 ローレンツ変換は、既に周知のことであって、彼の独創は主張し得ない。解釈の問題となる。
2 光量子仮説は、プランクの発見の単純な応用である。
3 ブラウン運動について。これは将来に残る業績である。ただし、時勢の先端だけを掠め取る、成り上がり志向の青年としては、見逃せないテーマであった。当人は、自分のやったことの意味を分かっていなかった。
いずれにせよ、あれこれと、当たっていた、フーテンがやることだった。

2012/02/25

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

2012/02/26

十八歳のとき、高村光太郎と、岩手県で一緒に暮らしたという老人と話をしたことがあった。私が、高村を批判すると、オマエは馬鹿もんじゃと、かんかんになって怒った。私が、意見を依然として変えないでいると、やや弱ってきた。
記憶でしか言わない。読み返すつもりはない。高村は、詩人と称するにはあまりに鈍感な、思想雑駁な男だった。知恵子はつくづく愛想が尽きたが、もう後戻りはできなくて、狂うしかなかった。あんなやつのせいで狂うとは、もったいなかった。

2012/02/26

貨幣は、交換を前提にしている交換のために作られた。その後の用途は寄生的だ。交換は信頼を前提にしている。1対1交換に対して、中間項としての貨幣を導入し、1対1対1にする。
貨幣は、信頼の恒久性を象徴=物質化している。
生活の長期計画化のために貨幣が必要。貨幣が個人を作った。
貨幣が実体(金、銀)を失う。
脳は公平を喜ぶ。

2012/03/03

文化の貧困は、持つ何ものもないが、貧困の文化は、豊饒だ。

2012/03/06

リバタリアンは、わがままで無反省で常識知らずのバカ親バカがきの生態を、ソフィスティケイテッドし、大規模にし、実現したがっている。スーパーで、特定の商品を独り占めして買って行く者に似ている。後に来た者のことを考えない。欲しかったら早く来りゃいいじゃん。遅く来といて文句言うなよ。売ってる物を買って悪いの? 店だって、皆売れて儲かって嬉しいだろうに。
リバタリアンは、中小企業の成功した経営者で、ごり押しで成り上がった親爺を髣髴とさせる。ワンマンであるのが自慢。カネで落ちこぼれの学者をだまして雇っている。悪い学者は、だます必要はなく、くっついてくるが(彼らはその親爺をモデルにして、そのうち打って出ようとねらう)。話をしていると、あっ、それ、貰った、と立ち上がって電話し、指示する。どっかと坐って、何ごともスピードだよ、などと訓示を垂れる。盗作しているのに、お礼の一言もない。ましてや謝罪するはずなどありえない。下司で下品でがっついている。すぐ、じゃあ、証拠出してよ、現金持って来てよ、と言う。こちらが辟易としているのを感じ取れない。どこがわるいの。法律に反してるって言うのかよ。じゃ、訴えろよ。言いなりの弁護士も高い給料を払って雇っているから自信満々だ。手下もたくさんいるし。ズーズーしく、無反省で、無教養で、態度がでかく、下品で、卑しい。やくざに実によく似ている。



posted by ドリフターズ at 01:41| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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