2017年08月11日

過去からの補遺14


……



2012/03/09

デジタルだろうとアナログだろうと、機械としての時計の進み方は、一方向で一定の早さであることを訴えている。確実至極と見える一歩一歩。クソまじめは、一種の狂気である。
時間は、本当は、酔歩しているのに。

ゲーテのファウストは、携帯小説だ。

2012/03/17

この私は誰のものでもない。
私のものですらない。
誰のものでもあるのだから。

現実の、この具体が、詩だ。
私は、子供のころ、りんごやバナナを描いた絵画を見て、何故これが芸術となるのか不思議でならなかった。
今は違う。静物画は、芸術のひとかけらだ。空間的時間的奥行きを持った、一瞬激しく動いては消える膨大な日常の生活全体が、芸術だ。言語を使う場合には、日常の孕む芸術性を詩として表わすに過ぎない。
一瞬一瞬が、それの連想する無数の一瞬一瞬と共鳴して、私を陶然とさせる。
ちがうでしょ、利害、機能、価値、関係、……は?。 きみ、それらのことを私は言っているのだよ。

他者を愛せ。
汝を愛するように他者を愛せ、ではなくて、汝も他者の一員であるという意味で愛せ。そう言われると、モティヴェイションが上がるだろう? お見通しのように、それは私の戦術だ。



2012/03/24

世界は、主観で出来ているのではない。個の主観であれ、類のそれであれ、驚きがあることがその証拠である。世界が主観的であれば、驚きはありえない。局所世界、対関係から、大局世界に至るまで、場の狭い広いに関わらず、驚きがある。侵入してきた絶対的他者に遭遇するからだ。

2012/03/25

恣意が、解放と、とり間違えられることがままある。
例えば、言語の恣意性は、自縄自縛に陥ったので、結果的には、解放とは正反対の本性を露わにした。

2012/03/27

存在の目的は存在することだ。ザインをゾレンに変えただけである。自己言及的だ。このことを生命に応用してみる。生存の目的は生き延びることだ。
やはり自己言及的だ。自己言及的であることは、実は目的がないことを示している。目的とは定義からして、自己でない、目指すべきものやことをいうからだ。

注。生存の方法に関しては、姿を変えずに自らを維持しようというより固体的な行き方と、姿を変え、世代を経、リスク回避のため個体として分散し、自滅しない限り個体数を増やすという、ダイナミックな戦術をとる場合とに二分される。

日常が延々と繰返す恐ろしさより、繰返しが決して起こらない恐ろしさのほうが、より恐ろしい。

ソシュールの齎した、恣意性に基づく言語理論は、近代主義の退廃の典型であり、悪しき観念論である。

危険が迫ったとき鳥が仲間に向けて上げる警戒音は、嘗て、仲間が敵に襲われたときに、その仲間が殺されながら発した悲鳴をなぞっている。
警戒、威嚇、生殖欲、食欲と音声が結びついている。その結びつきは恣意的ではない。種において差異がないからだ。ヨーロッパの鳩も日本の鳩も、鷹に襲われるときには同じ警戒音、威嚇音、そして断末魔の悲鳴を上げる。

霊長類のしぐさが、多義的であることが、警戒音、威嚇音とは異なって、話し言葉の元ではないか。しぐさが、状況によって意味が異なることを表わしていたのではないか。

活用とは、しぐさの固定したものではないか。

しぐさ→活用。多義性は、活用によって、統御される。
しぐさ(身振り、手振り、ジェスチャー)は、状況に応じて異なる意味を持つ。つまり、多義的だ。状況、環境に応じて、自らを部分的に変える。どうも、文法の活用は、しぐさの多義性をルール化し、固定化した痕跡のように思われる。しぐさの際の、恩、韻、叫

原理。
多義性の統御が文法である。

ソシュールは、切り取る主体を意識としか言っていない。井筒は、トポスと実存を持ち出して、膨れ上がった必然性が文節線を実現すると言っている。ソシュールの心を替わって言ってみた様で、井筒が近代主義に毒されている、失礼、近代的知性に理解されるように、大きな違和感を抱かれないように、気を使っていることが、よく分かる。

2012/03/28

客観と主観
対象とそれを見る主体のどちらが記述の要因になっているかで、客観と主観を区分けするのは、蒙昧だ。
客観とは、内部に矛盾を含む記述だ。主観は含まない。(内部矛盾という言葉は語義矛盾!)
矛盾は、主体に対する批判である。外部からの声である。外部の存在はこのことで明らかになる。矛盾をつなげていくと、内と外を分ける壁が浮かび上がってくる。無矛盾は、有界ではあるが壁の見当たらない自足状態を示す。完全な主観は万能状態に酔い痴れる。

非線形は、線形以外ということで、その他である。
非線形連立偏微分方程式は、絶望のほんの一部分を表現しているに過ぎない。

2012/04/01

生きるとは、質問に次ぐ質問を発し続けることにすぎない。

2012/04/05

三島の仏教理解と知識は(思い入れは別にして)、ウィキペディアのレベルに過ぎない。
で、それがどうした、という立場がある。
私は、さらにむしろ、よくぞ、孤軍奮闘したと、褒め称えたい。
牽強付会なんぞが、それこそ、どうした? 
井筒俊彦のような、東洋思想の近代風(ソシュール風)解説者よりは、欧米に媚びていないだけ(その他の部分では大いに媚びていたが)、まだましであろう。
私は、どっちがどっちと言っているわけではない。
だって、三島も井筒も、言っていることに、あまり変わりはないから。
三島は、恣意的な読書経験での印象を語っている。それが信念化するのが、奇怪な過程であるが。
井筒は、学者として研究の対象として、東洋思想の解明を一世の課題とした。
知り得た限りでのことを、欧米のインテリに受け入れられるように、格調的な西欧的文脈で語った。彼がなしたことは、古代中世のアジア思想の西欧への翻訳と西欧人のそれへの啓蒙であった。
苦労の成果目覚しく、言わんとするところが彼らに通じた(ホントーに通じたかはホトケのみぞ知る!)。

2012/04/14

表現しなければ、現象はたちまち逃げ去る。
充分に表現できたと思ったら、現象は立ち止まってくれる場合もある。
ただ、言ってくれるよね。
それでいいとおもってるの?

2012/05/06

言語以前の状況下、網目を入れる前の混沌を見せてくれ。
いつどこでだれがそれを見たのか。
言葉を発したとき(パロール)、その生き物は混沌を見ていたのか?
違う。仲間を見て、警戒音を発していた。敵を見て、威嚇音を発していた。
類の歴史の問題ではなく、個体の初期の発生段階で、混沌を見て網目をつけたのだとかわすのか? 赤ん坊は混沌など見ていない。母親を見ている。
ソシュールの幻想は、創世記に基づく。
神は、光りあれ、と言われた。すると光があった。神はその光を見て、よしとされた。神はその光と闇とを分けられた。
言うとあった、は、レッテル張りを拒否するソシュールの、同時性理論の元であり、光と闇とを(に?)わけられた、は、網目を引いたことと同意である。


2012/05/09

生物的な、地政学的な、変化の遅い条件と、社会的な、政治的な変化の早い条件とに、その両方に、矛盾しないモラルでしか、人は動かないはずだった。そのようなモラルになんらかの力が今でもあるとすれば、と回想的にも復古的にも議論するのではなく、非歴史的な、新しいモラルがありうる。
人間たちに対しては、非常な、リダクションを要請する。
それに対応する人間もいる。非人情の世界を、生まれた時から日常とするハンパモノだ。ネットに乗って、こいつらがマタマタ、フランス革命を実行する。その後の恐怖政治もね。
個人的におもふらく。恐怖政治が先行するぞ。

経済で使われる数学、算術があまりに素朴すぎて、こんなことで、現実が判断できるのかと思わない人間がいようか。いないはずなのに、呆れるほどいる。仮定している限りでのことを言っているに過ぎないが、その仮定があまりに非現実的なので呆れてしまう。堂々たる仮定は、実は、私も好むところだが、政治と恣意が乱れもつれた爛れた仮定は、勘弁してくれ。これが現実だと言うだろうが、(現実にあわせるためには、とんでもない非現実的仮定を仮定しなければならない。その事情は、実は、私は分かっているつもりだ)
ただ、君らの勝手を怒鳴っているだけだ。
経済学の胡散臭さを笑う。文化人類学のほうがまだましだ。


posted by ドリフターズ at 01:51| Comment(0) | 小説/文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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