2019年09月27日

我々が共有する悲劇


年月は、悲劇をもたらすのか。


死を、悲劇のクライマックスとみなすならば、そうだ。


だから、先を見て、今を、悲劇的とみなすのもたやすい。


だがねえ。

死を、健康で堅実な、あるいは、快楽的で隠微な、どちらもやってのける市民生活、日常生活の、その合間合間に予感して、それらとの交換条件がもたらす必然として、受け入れるなにごとかとしてしか、よそから指し示されえないのか、我々は?

posted by ドリフターズ at 06:06| Comment(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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